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名称 東陽寺のイチョウ (とうようじのいちょう)
名称の典拠 現地の標柱(注1)
樹種 イチョウ
樹高 30m(注2)
目通り幹囲 8.0m(注2)
推定樹齢 伝承500年(注2)
所在地の地名 宮城県登米市東和町米谷(まいや)字越路(注3)
〃 3次メッシュコード 5841−02−44
〃 緯度・経度 北緯38度42分32.4秒
東経141度17分52.1秒
東和町指定天然記念物(1970年12月14日指定)(注4)
撮影年月日 2006年8月22日
注1)1989年3月31日に東和町教育委員会が設置
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 北海道・東北版」による
注3)2005年4月1日、9つの町が合併して登米市誕生。旧行政区は登米郡東和町
注4)その後、2005年5月10日、宮城県から天然記念物指定を受けた(2012年6月追記)
曹洞宗亀松山東陽寺境内、本堂の裏手に1本の大イチョウが立っている。
東陽寺の開創は応仁〜文明(1467〜87)の頃。伊達家々臣原田家の菩提寺で、はじめ出羽国置賜郡小松(現山形県東置賜郡川西町)にあった。
その後、主君伊達氏は仙台に移り、それに従って原田家も舟岡(現柴田郡柴田町)に移封された。当然、菩提寺たる東陽寺もまた舟岡に移った。
そして、あの有名な伊達騒動(寛文事件)が起きる。騒動の内容について、ここには記さないが、年輩者のなかには、山本周五郎原作のNHK大河ドラマ「樅の木は残った」をご記憶の方も多かろうと思う。
寛文事件で死亡した家老原田甲斐宗輔(はらだかいむねすけ)は、逆賊の汚名を着ることとなり、原田家は断絶した。宗輔の亡骸は、芝山内(現東京都港区)の良源院に葬られたが、家臣らが密かに遺首を持ち帰り、東陽寺に葬ったと伝えている。
原田家断絶で、原田領は柴田氏の領地となり、柴田家の菩提寺大光寺も柴田氏に従って舟岡に移り、大光寺の旧地には、代わりに舟岡から東陽寺が移転した。これが現在の東陽寺である。
移転の際、宗輔の首桶は、人目を避けるため、梵鐘の中に隠され、舟で運ばれたとも伝えられている。
本堂の裏手、池の畔に、宗輔の首塚がある。高さ1.8mほどの自然石で、延宝7年(1679)の年号が刻まれた名号碑がそれだという。逆臣ゆえ、それとわからぬよう名号碑は伏せて設置され、目印にイチョウが植えられたという。(今は起こされている)
それがこの大イチョウである。
細長い気根をいくつもつけているため、乳イチョウとも呼ばれている。主幹は途中で失われている。落雷の被害らしい。銀杏の実らぬ雄株である。
ところで、伊達家一族の集権化に努めた原田宗輔は、藩政を思うままにした奸臣と評価されることが多かったが、山本周五郎「樅の木は残った」は、我が身を捨てて主家を守る忠臣として宗輔を描いた。
おかげで、東陽寺も、原田甲斐との関わりを、誇らしげに案内することができるようになったわけである。 |
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