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画像:親鸞上人乳銀杏(幹と並ぶ)


画像:親鸞上人乳銀杏




画像:弘智堂

 弘智堂とその内部(1995年9月19日撮影)

画像:弘智堂内部
名称 親鸞上人乳銀杏
   (しんらんしょうにんちちいちょう)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 イチョウ
樹高 28m(注2)
目通り幹囲 11.5m(注3)
推定樹齢 伝承800年(注2)
所在地の地名 新潟県長岡市寺泊野積(注4)
 〃 3次メッシュコード 5638−46−33
 〃 緯度・経度 北緯37度41分44.8秒
           東経138度47分43.9秒
寺泊町指定天然記念物(1981年4月1日指定)(注4)
撮影年月日 2002年6月1日(初掲写真)
        2010年7月3日(掲載写真)
        2022年7月6日(少し大きめの画像)
注1)設置者及び設置年月不詳だが、所有者の西生寺(さいしょうじ)が設置したと思われる。ただし、天然記念物指定名称は「西生寺の大銀杏」である
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」による
注3)同上。ただし、実状はこれほど太くはない。新潟県緑化推進委員会「にいがた巨樹・名木100選」では8.3m。私の目測値もこれに近い
注4)2006年1月1日、長岡市に合併。旧行政区は三島郡寺泊町





 真言宗智山派の名刹海雲山滝泉院西生寺境内に立つ。
 西生寺は弘智上人の即身仏で知られる。弘智法印は下総国香取郡正木郷の生まれ。具戒修学の後、奥州・出羽を巡り、北陸道を経て高野山に登らんとしたが、弥彦神社を拝し、猿ヶ馬場の岩坂にて深入禅定の座を占め、貞治2年(1363。正平18年と同年)に入滅した。辞世は「いはさかのあるしはたそと人とはゝ墨絵にかきし松風のおと」。現代仮名遣いで記せば「岩坂の主は誰ぞと人問わば、墨絵に描きし松風の音」になろうか。
 即身仏になるのは簡単ではない。何日もの間、光のない地中の穴底で、身動きも出来ず、ジッと耐えていなければならない。協力者も必要だ。並大抵の意志で貫徹できるものではない。辞世は、人の生の儚さを歌うことで、むしろ自身のくじけそうになる意志を鼓舞しようとしたものか。いずれにしろ、私のような凡人に、弘智法印の心など理解するべくもない。
 即身仏は、現在、イチョウの前に建てられた弘智堂に安置されている。私も拝観させていただいた。身を屈しておられることもあるが、ずいぶん小さなお姿である。松尾芭蕉も対面したことが、曾良の「奥の細道随行日記」に記されているそうである(当時は別の場所に安置されていた)。良寛も見ている。
 親鸞上人の伝説は、弘智法印よりさらに時代を遡る。
 越後流罪の折りの正元2年(※)、親鸞上人は西生寺に参籠された。その際、一信者が記念に作って呈上した杖を、吾の代わりにと地面に挿して行かれた。それが根付いたのがこの大イチョウだという。(ならば伝承樹齢は740年ということになるはずだが、細かいことは詮索しまい)
 高台の弘智堂前、斜面の縁に立つため、門前からよく見える。境内は自然をよく残している。この大イチョウをはじめ、紅葉の頃はさぞかし美しく彩られることだろう。

※ この部分は案内板の記述を写したものだが、巨木を通じた同好の士である長岡市のAさんから、正元は承元の誤りではないかとご指摘があった(ご指摘に感謝)。私もご指摘が正しいと思う。ただし、無粋な話で申し訳ないが、親鸞の時代には日本にまだイチョウが渡来していなかったのではないかとも思っている。(2019.02.17追記)
 
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