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名称 如来堂のイチョウ (にょらいどうのいちょう) 名称の典拠 「会津若松の巨樹・巨木林」(注1) 樹種 イチョウ 樹高 25m(注2) 目通り幹囲 5.3m(注2) 推定樹齢 不明 所在地の地名 福島県会津若松市神指町中四合(こうざしまちなかしごう)字村添(如来堂) 〃 3次メッシュコード 5639−27−01 〃 緯度・経度 北緯37度30分31.1秒 東経139度53分29.3秒 天然記念物指定 なし 撮影年月日 2007年10月6日 注2)環境省「巨樹・巨木林調査」フォローアップ調査による(調査結果は奥多摩町「日原森林館」サイトから入手可能 国の天然記念物「高瀬の大木」から南西に700mほど離れたところにある小さな集落が如来堂だ。 集落の南端、小高い場所に如来堂がある。(集落の名は仏堂としての如来堂から派生したと思われる) 如来堂という以上、なんらかの仏像が安置されているものと思うが、案内板にも尊名などの情報は記されていない。 ここはむしろ、新選組殉難の遺跡として知られる場所なのだ。 案内板の内容を要約してみよう。(一部に案内板を逸脱してWikipediaから引用) 戊辰戦争の慶応4年(1868)9月4日、20名ばかりの新選組隊士が守備する如来堂を政府軍が襲撃。守備部隊は全滅したとされている。 守備隊長は山口次郎(改名前の名は斎藤一)。沖田総司、永倉新八とともに、新選組最強の剣士と称された人物である。 苦戦を重ねつつ東に落ちてきた土方歳三と山口次郎は、猪苗代で合流した。しかし山口は、その後、庄内藩に向けて旅立った土方に同行せず、「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津に残った。そしてこの日を迎えたのである。 しかし、実は、全滅はしていなかった。山口を含む数名の隊士が激戦を生き延びることができた。 9月22日に会津藩が降伏。藩主松平容保が派遣した使者の説得を受けて山口も投降。越後高田(現新潟県上越市)で謹慎生活を送ったのち、藩主松平家が移封された斗南藩(青森県下北)で結婚。その後、東京に出て大正4年(1915)まで生きた。床の間に座ったまま大往生を遂げたと伝えられている。 山口次郎の話が長くなってしまった。 当地の戦さで、志に燃えた多くの若い命が露と消えたのは、今から約140年前の出来事である。 死んだ者には死んだ者なりの、そして生き残った者には生き残った者なりの思いがあったことだろう。 現在ほどの大木でなかったにしても、当時すでに、この場所にイチョウは立っていたと思われる。イチョウも弾丸を浴びながら、その様子を見ていたのかも知れない。 訪問時には、赤みを帯びたギンナンの黄色い粒をたくさんつけていた。 全身で、平和な世界を喜んでいるように見えた。 |
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