ページタイトル:竹田神社の大楠 当サイトのシンボル

画像:竹田神社の大楠_1

画像:竹田神社の大楠_2

画像:竹田神社の大楠_3
 標記のクスは中央
名称 竹田神社の大楠 (たけだじんじゃのおおくす)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 クスノキ
樹高 15m(注2)
目通り幹囲 8.2m(注2)
推定樹齢 伝承400年(注2)
所在地の地名 鹿児島県南さつま市加世田武田(注3)
 〃 3次メッシュコード 4730−02−85
 〃 緯度・経度 北緯31度24分36.0秒
           東経130度18分58.5秒
天然記念物指定 なし
撮影年月日 2009年7月29日

注1)南さつま市教育委員会が設置(設置年月不詳)
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注3)2005年11月7日、1市4町が合併して南さつま市誕生。旧行政区は加世田市





 竹田神社は明治6年(1873)創立。祭神は日新偉霊彦尊(ひわかくすたまひこのみこと)。戦国時代に生まれ、島津家中興の祖と称される島津忠良(日新斎)を神として祀ったものである。
 神社となる前、ここには曹洞宗のお寺があった。
 文明17年(1485)、薩州島津家の国久が建立した保泉寺が最初。それから80年ほどを経て、加世田に隠居した島津忠良が永禄11年(1568)に77歳で没すると、この寺に葬られた。そして忠良の号「日新斎」に因み、7世住持梅安(ばいあん)によって、山寺号は龍護山日新寺(じっしんじ)と改められた。
 徳川の世に変わっても、島津家から厚く保護され、寛政10年(1798)に火災で焼失した際も、藩主島津斉宣(なりのぶ)によって、旧観を遙かに凌ぐ寺容に再建され、寺田230石余の寄進を受けたという。
 これほどの日新寺であったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまった。忠良公の菩提寺が失われることを惜しんだ有志25人が氏子となって、ここに竹田神社が建てられたのは既述のとおりである。(境内の案内板や平凡社「鹿児島県の地名」を参考)
 境内の前縁部に、クスノキの巨木が並んでいる。環境省資料には1本しか掲載されていないが、目通り3mを超し、巨木の範疇に達したものが何本もある。
 これらのクスノキは、保泉寺の時代からあったと伝えられているようだ。(となると、伝承樹齢は5百歳を超えることになり、旧環境庁データとは整合しない。これ以外の何か別の伝承があるのだろうか)
 そばにピンクの立て札が見える上図の個体がもっとも太そうだ。中図は、それを道路側から見たもの。
 上記の寛政10年大火の際に、クスノキは延焼を免れたものの、建物側の半分が焦げた。境内に立って見ると、いまもその痕が見える。
 ところで、日新公は、隠居後も陰からさまざまな業績をなした。その一つに「いろは歌」の創作がある。いろは47首に、人として生きる道と、人の上に立つ者の心得を託したもので、薩摩藩の教育指針として長く受け継がれた。
 「い」の歌は、「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」。いかに学問を積んでも、いかに良いことを言っても、実行を伴わなければ役にたたない、という意味であろう。
 神社から忠良の墓所に向かう小道は「いにしへの道」と名付けられ、その脇に47基の歌碑が並んでいる。
 
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