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番場忠太郎の供養塔 |
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名称 蓮華寺の一向杉 (れんげじのいっこうすぎ)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 スギ
樹高 30m(注2)
目通り幹囲 5.6m(注2)
推定樹齢 700年(注3)
所在地の地名 滋賀県米原市番場(注4)
〃 3次メッシュコード 5236−72−75
〃 緯度・経度 北緯35度18分45.7秒
東経136度18分58.9秒
天然記念物指定 なし
撮影年月日 2009年5月10日
注1)滋賀県は、文化財としての天然記念物のほかに、自然環境保全条例によって「自然記念物」を定めている。このスギが平成14年5月7日、自然記念物に指定されたことを示す案内板を滋賀県が設置した(設置年月不詳)
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による
注3)上記案内板による
注4)2005年2月14日、坂田郡内の3町が合併して米原市(まいばらし)誕生。旧行政区は坂田郡米原町(まいはらちょう)
浄土宗八葉山蓮華寺境内の奥まったところに立つ大杉。
寺が発行しているパンフレットによれば、蓮華寺は聖徳太子によって創建され、法隆寺と号した。法隆寺は建治2年(1276)、落雷に遭って焼失。
弘安7年(1284)、北陸巡錫中の一向俊聖に帰依した当地の領主土肥三郎元頼が伽藍を再建。寺は一向上人を開山とする八葉山蓮華寺として生まれ変わった。(そのとき鋳造された弘安7年10月銘の梵鐘が現存し、国重文)
一向はなかなかの名僧で、多くの人々から尊信され、一派を形成するに至った。蓮華寺は、時宗一向派大本山であった時期もある。(その後、時宗を離脱し、浄土宗に帰属した)
このように、寺歴のみをみても十分に著名な蓮華寺だが、それ以外にも、有名な話が2つある。
その一。南北朝時代の元弘3年(1333)、京都での戦いに敗れた北朝方の六波羅探題北條仲時は、北朝の光厳天皇、後伏見・華園両上皇を奉じて中山道を下ったが、ここ番場の地で、南朝方の京極導誉に行く手を阻まれ、最後の戦いを挑んだが、奮戦空しく再び敗れてしまった。仲時以下430余名は、悉く自刃。深く同情した3代住職同阿良向は、この者たちの名を1巻の過去帳に認め、墓碑を建立して冥福を祈った(その「陸波羅南北過去帳」も国重文)。仲時らの墓碑も現存する。
その二。番場の宿で母親と生き別れになった忠太郎を主人公とする芝居「瞼の母」(長谷川伸原作)に因み、昭和33年(1958)8月3日、境内に番場忠太郎地蔵が安置された。「親を尋ぬる子には親を、子を尋ぬる親には子をめぐり会わせ給へ」との願いを込めて建立されたという。なお、もちろん番場忠太郎は芝居上の架空の人物だが、地蔵の横には、忠太郎の墓もあり(下図)、玉垣の石には、長谷川伸はもとより、片岡仁左エ門、島田正吾、片岡千ヱ蔵、長谷川一夫らの名前が見える。
肝心の大杉の話が遅くなった。
「一向杉」の名は、一向上人の遷化(1287)後、荼毘に付された跡に植えられたと伝えられているから。(伝承樹齢もそこから)
番場地蔵のすぐ近くに立っている。 |
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