ページタイトル:野中の一方杉 ロゴ:人里の巨木たち

画像:野中の一方杉_1


画像:野中の一方杉_2
参道石段、向かって左手に立つ一方杉
画像:野中の一方杉_3
 正面、高い位置に一方杉が見える
名称 野中の一方杉 (のなかのいっぽうすぎ)
名称の典拠 天然記念物指定名称
樹種 スギ
樹高 32mほか(注1)
目通り幹囲 7.5mほか(注1)
推定樹齢 伝承800年(注1)
所在地の地名 和歌山県田辺市中辺路町野中(注2)
 〃 3次メッシュコード 5035−55−90
 〃 緯度・経度 北緯33度49分42秒
           東経135度38分03秒
和歌山県指定天然記念物(1958年4月1日指定)
撮影年月日 2014年3月20日

注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による
注2)2005年5月1日、田辺市に合併。旧行政区は西牟婁郡中辺路町





 中辺路町野中(なかへちちょうのなか)に、継桜王子(つぎざくらおうじ)がある。
 田辺市教委が設置した案内板によれば、続桜、接桜と標記されたこともあるこの「桜」は、50mほど東に立つ秀衡桜(ひでひらざくら)と関係がある。
 その秀衡桜の案内板(設置者名・設置年月とも不詳)によると、初代継桜は、下はヒノキで上はサクラというようなものだったらしい。
 本来、サクラをヒノキに接ぎ木することは出来ないから、ヒノキの幹に出来た洞に鳥がサクラの種が運び、それが育って大きくなったのだろうか。この目で姿を見れば、もっとはっきりしたことがわかりそうに思うが、今は望んでも叶わぬことである。
 これを奇瑞とみて、奥州で繁栄を誇った藤原秀衡(ふじわらのひでひら、1122?〜87)の登場となった。
 伝説では、秀衡夫妻が熊野詣での途中、滝尻の岩屋で奥方が出産。しかし、乳飲み子を連れて参詣道を歩き続けることが出来ず、熊野権現の夢告に従い、子を残して旅を続けた。
 ここまで来てやはり心配になり、杖にしていた桜の枝を地に挿して、子の無事を祈った。それが根付いて継桜となったというのである。(今日では「秀衡桜」と呼ばれている)
 その初代秀衡桜が枯れたのはいつなのか定かではないが、紀州徳川家初代頼宣(よりのぶ、1602〜71)が跡地にヤマザクラを植え、それも明治22年(1889)の水害で倒れたため、もとの場所から少し離れた現在地に苗木を植えて秀衡桜の名を継いだようだ。
 私が訪ねた時は、そのサクラも倒れ、傍らには4代目(?)が育っていた。
 さて、一方杉である。
 ヒノキにサクラの花が咲く奇瑞を示した継桜王子には、その他にも奇瑞が見られる。境内のスギたちが皆、枝を一方にしか伸ばさないのである。枝の方向は熊野那智大社がある那智山に向いている。
 客観的に見れば、継桜王子の境内は、かなりの勾配をもって南に向かって傾いている。そこに密に立つスギであるから、陽光を求めて枝が南に偏することに何の不思議もない。しかし、継桜の奇瑞を見た人々は、これらのスギを一方杉(いっぽうすぎ)と名付け、神の威光を感じ取った。ここには方杉(ほうさん)という地名も残る。
 昭和33年(1958)、全部で10本の一方杉が和歌山県から天然記念物指定を受けた。
 現存するうち、4本がかなりの巨木である。
 多分、石段脇に立つのが最大であろう(左図)。
 二番手・三番手は、境内入口に立つ個体と、拝殿の手前、向かって右手の個体だと思うが、いったいどちらが大きいのだろうか。
 いずれも頂部を失い、幹の内部には空洞がありそうだ。もう最盛期の勢いはない。
 生物の宿命として、いずれは終える命(いのち)だが、それまで少しでも長く、元気な姿を見せ続けてほしいと思う。
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