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本堂に向かって右手奥のシイ
参道石段の途中に立つシイ |
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名称 縁城寺のシイノキ (えんじょうじのしいのき)
名称の典拠 なし
樹種 スダジイ?
樹高 17m(注1)
目通り幹囲 5.1m(注2)
推定樹齢 不明
所在地の地名 京都府京丹後市峰山町橋木(はしぎ)(注3)
〃 3次メッシュコード 5335−30−85
〃 緯度・経度 北緯35度39分32.4秒
東経135度04分09.4秒(注4)
天然記念物指定 なし
撮影年月日 2012年5月12日
注1)環境省巨樹データベース(2000年フォローアップ調査)による
注2)同上。5.1mと1.5m、2本の株立ちと見て、合計の幹囲6.6mを計上しているが、太さの印象は5.1mというところだろう
注3)2004年4月1日、3郡にまたがる6つの町が合併して京丹後市誕生。旧行政区は中郡峰山町
注4)これは、左上図の個体の位置
県道663号(掛津峰山線)から少し東に入った静かな谷奥に、高野山真言宗発信貴山縁城寺(はしきさんえんじょうじ)がある。
縁起を記した案内板を要約すると、養老元年(717)、インドから来朝した善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が当地に来て、千手観音像を安置。のち宝亀2年(771)、この話を耳にした光仁天皇の勅願で堂宇を建立、千手院と号した。さらに延暦14年(795)、桓武天皇から縁城寺の寺号を賜ったという。
その後も、弘法大師が来錫して「発信貴山」の山号額を書き残したり、一条天皇(在位986〜1011)の勅願寺となるなど、名刹の誉れ高かったようだ。仁王門から金堂に至る300m余には、7ヶ院25坊が連なっていたそうである。
明治の廃仏毀釈の嵐、昭和2年(1927)の丹後地震、同38年(1963)の豪雪など、災難が続いたにもかかわらず、現在もなかなか良い佇まいのお寺である。
緑濃い静かな境内には、シイ巨木が多く見られる。平成3年(1991)6月、縁城寺の「シイ林」は「京都の自然二百選」に選ばれた。
その標柱が、本堂手前の石段脇に立つシイの木(左下図)の根元に設置されていた。この木を境内のシイの木の代表と考えたわけだ。環境省の巨樹・巨木林調査でも、登録されている数値からみて、このシイが取り上げられたと思われる。
しかし、もっとお薦めのシイがある。
本堂前に達して右手を見ると、変わった形の御堂が見える。変わっているのもそのはず、もとからこの形だったわけではない。本来は多宝塔だったものが、昭和38年の豪雪で上部が倒壊し、裳階(もこし)部分のみが残された。簡素な切妻屋根と手の込んだ軒下組物が不釣り合いなのはそのためだ。
その多宝塔のさらに右に目を移すと、山裾に大きなシイの木が立っている(左上図)。
こちらの方が参道の個体より、大きさも一枚上手だと思うのだが、何故、こちらが取り上げられなかったのだろうか。力強さも、樹勢もこちらが勝るように思う。
根元に2体の石像が安置されていた。薬師如来と弘法大師のようだ。わざわざここに安置したということは、このシイが他とは違うと見なされているのだろう。
ほかに、庫裏の庭に立つシイ、池に臨む斜面に立つシイなどもなかなかのものである。 |
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