ページタイトル:向雲寺のクスノキ 当サイトのシンボル

画像:向雲寺のクスノキ

画像:向雲寺のクスノキ(全景)
名称 向雲寺のクスノキ (こううんじのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 20m(注1)
目通り幹囲 8.3m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
所在地の地名 愛媛県今治市上浦町瀬戸(注2)
 〃 3次メッシュコード 5133−20−74
 〃 緯度・経度 北緯34度13分42.3秒
           東経133度02分56.4秒
天然記念物指定 なし
撮影年月日 2013年5月22日


注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 中国・四国版」による
注2)2005年1月16日、今治市に合併。旧行政区は越智郡上浦町





 西瀬戸自動車道上浦パーキングエリアの南東200mほどのところに、曹洞宗潮音山向雲寺がある。寺の裏手の小山には墓地が広がり、頂上にこのクスノキが立つ。
 クスノキは複数幹の株立ち。上記の幹囲データはそれぞれの幹囲の合算値と思われる(単独で見れば、最大幹でも3m台)。元気の良さそうなクスノキで、大きな樹冠が頼もしい。
 しかし、ここではクスノキよりも、傍らの地蔵尊の方が有名なようだ。「甘藷地蔵」(いもじぞう)の名で、愛媛県指定史跡とされている。
 甘藷(かんしょ)とはサツマイモのこと。境内の下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)像の傍らに説明があった。
 正徳元年(1711)、吉十郎は六部となって回国の旅に出た。同年11月、薩摩国日置郡伊集院村で土兵衛の家に世話になったとき、痩せた土地にも育つ甘藷が飢饉対策として有効なことを知った。薩摩藩は甘藷の持ち出しを禁じていたが、吉十郎は禁を犯して種芋を故郷に持ち帰り、付近の農民に栽培法を教えた。以来、甘藷栽培は瀬戸内一帯に広まり、瀬戸芋と呼ばれるようになったとか。
 そのおかげで、松山藩で3500人の餓死者が出たという享保17年(1732)の飢饉でも、このあたりでは殆ど餓死者を出さなかったという。(「伝えたいふるさとの100話」にもっと詳しい話あり)
 クスノキの隣の御堂を覗くと、中に石地蔵が安置されていた。吉十郎没後、島の人々がその功績を後世に伝えるため造立したという。
 甘藷地蔵が両手にしっかり持つ宝珠が、まるでサツマイモのように見えた。
 
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