ページタイトル:東祖谷山の鉾杉 当サイトのシンボル

画像:東祖谷山の鉾杉_1


画像:東祖谷山の鉾杉_2


画像:鉾神社のスギ
鉾神社には、平家の怨念が宿ったように、根が複雑に絡まった大杉もある
名称 東祖谷山の鉾杉 (ひがしいややまのほこすぎ)
名称の典拠 なし(注1)
樹種 スギ
樹高 30m(注2)
目通り幹囲 10.0m(注2)
推定樹齢 800年(注3)
所在地の地名 徳島県三好市東祖谷大枝(ひがしいやおおえだ)(注4)
 〃 3次メッシュコード 5033−67−41
 〃 緯度・経度 北緯33度52分13.0秒
           東経133度53分48.9秒
徳島県指定天然記念物(1954年1月29日指定)(注5)
撮影年月日 2010年8月2日

注1)天然記念物指定名称は単に「鉾スギ」。しかし、各地に鉾杉があるため、私のサイトでは、こう呼ばせてもらった
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 中国・四国版」による
注3)徳島県公式WEBサイト中のページ「阿波のごっつい木」による
注4)2006年3月1日、三好郡内の4町2村が合併して三好市誕生。旧行政区は三好郡東祖谷山村
注5)1974年8月30日に、「東祖谷の社叢群」として、鉾神社をはじめ7社の社叢が一括指定された。ただし、この鉾スギだけは、一足お先に県指定を受けていた





 どこで聞いたか忘れたが、徳島県の山間部には「ホイホイ一里」という言葉があるそうだ。
 四国の山は険しく、大きな川の上流部はみな、地理の教科書に出てくるような深いV字谷を形成している。その斜面の、かなり標高が高い場所に、いくつもの集落が形成されている。そんな地域で生まれた言葉だ。
 「ホイ(おーい)」と声を掛けると「ホイ(おーい)」と声が返ってくる。直線距離なら肉声が届く距離であっても、いざ、そこに行こうとすると、1里(約4km)ほども歩かなくてはならない、という意味だったように思う(間違っていたら御免)。急斜面の道はつづら折りに造られ、また、川向かいはもちろん、すぐ隣の集落に行くにも、いったん川底近くまで下りなければならないからである。
 鉾杉が立つ大枝も、そんな集落の一つだ。
 祖谷谷(いやだに)は、また、平家落人伝説の里でもある。
 第81代安徳天皇は、治承2年(1178)、高倉天皇と、平清盛(たいらのきよもり)の娘である徳子(建礼門院)の間に生まれた。満2歳にもならぬうちに天皇になったが、もちろん政治など司れるはずがない。実権は祖父の清盛はじめ平氏が握っていた。
 いわゆる源平合戦で平家が滅びるのは、それから何年もたたぬうちである。「平家物語」では、幼い安徳天皇は、祖母である二位の尼に抱きかかえられ、合掌したまま入水したことになっている。物語中のクライマックス場面である。
 今日風に年齢を数えれば、そのとき安徳天皇は6歳と4ヶ月。まだ小学校に上がる前の、疑うことを知らない愛くるしい年齢だ。
 鉾杉が立つ鉾神社には、その安徳天皇が、壇ノ浦の戦いで死ぬことはなかったとする伝説が残っている。各地を転々とし、祖谷山に達した安徳天皇が、ここに鉾を納めて創祀したのが今の鉾神社だというのである。
 判官伝説でもそうだが、美しく滅びるものに、なんとも言えぬ愛着を感じるようだ。「もしも滅びなければ」という仮想の物語も、愛着の形態の一つなのだろう。
 さて、大杉であるが、本殿の後方、斜面にあって、社殿を見下ろすように立っている。周囲には灌木が多く茂り、根元付近がよく見えるポイントはあるが、大杉の全体像が見える位置はなさそうだ。
 枝の剪定などはなされておらず、枯れた枝も、付け根が幹に残っている。その姿が、矢を全身に受けたまま立ち往生した武者の姿(安徳天皇の手前、敢えて弁慶とは言うまい)のようで、これはこれで、趣きがある。
 横幅よりも縦に厚みがある、いわゆる建築材の梁のような大枝も力強い。
 鉾神社は、国指定重要文化財喜多家住宅のすぐ隣なので、その案内表示を辿れば、神社の前に出ることができる。
 
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